興味深いパラダイムに対する考えを積み重ねる場にしたいです.


by patyakatya
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遠い日の歌

「違う」と感じる/思う能力の方が現実/クオリアに近く,「同じ」と思う/感じる能力の方が現実/クオリアから遠い感じがする.

今日もこのことについて考えていた.人間の知覚は時空間的分解能がそこそこ優れているので,一生の間に複数の(というか寧ろ無数の)クオリアを感じることができる.人間にはそういう複数のクオリアを「同じ」とみなす能力と「違う」とみなす能力の双方が存在する.つまり,異なる粒度(ギブソン用語)でクオリアを呪物(フェティッシュ)に変化させることができる.「同じ」も「違う」も,世界を探求する方法としては等しく重要なんだろう.ただ,僕には「同じ」の方が「違う」よりも「遠い」という感覚がする.

「近い・遠い」という感覚に対して,どうして僕はこだわるのだろう?以下でその説明を試みてみる.

「近い」あるいは「遠い」という言葉が生み出す感覚は,これまでのエントリーでも度々触れてきた「奥深さ」という言葉が生み出す感覚と,自分の中では全く一緒である.

どうして「近い」とか「遠い」とかいった感覚が僕にとって重要なのか.それは,人は「遠いもの」を知ること/感じることになんともいえない切実感を感じるように思えるからだ.そして僕自身もまた,「遠いもの」に対して常日頃から片思いを寄せている.

「死」は人にとって一番遠い存在かもしれない.だから「死」を切実に考える人間は,「遠いもの」を知ったり感じたりしたがるのかもしれないと僕は思う.あるいは「他人」こそが人にとって一番遠い存在なのかもしれない.だから人間は「遠いもの」を知ったり感じたりしたがるのかもしれない.
細かい違いを見出すことも,統一的な傾向を見出すことも,共に遠くへたどり着くために人類という種が手に入れた奇跡的な手段なのだと思う.でも,遠くって本当にどこなんだろう??

人は遠い場所にたどり着くために同じとみなす能力を持っている.また同時に,同じとみなす能力を利用しなければ遠い場所には到達しえない.
人は遠い場所にたどり着くために違うとみなす能力を持っている.また同時に,違うとみなす能力を利用しなければ遠い場所には到達しえない.
一人一人が「違う」「一人の」人間であるということが解らない人が,他人というものを理解できるはずがない.

遠い場所とは,遠い日とは,本当に何のことなんだろう.「死」「他人」「宇宙」「自分」全て同じものなんだろうか.多分そうなんだろうと僕はなんとなく思っている.

以上が僕が遠近感に拘る理由だ.そして,遠い場所を探すうえで,「同じ」の方が「違う」より遠い感じがするというのは,ひょっとしたら重大なヒントかもしれないと僕は思う.「同じ」の方が「違う」より遠い感じがするから,「死」「他人」「宇宙」「自分」といった「遠いもの」は全て「同じ」ものだと感じるのかもしれない.これは個人的な嗜好なのか,結構みんなそうなのか,僕にはよくわからない.よくわからないこの「遠いもの」に関して,僕はこれからも考えていきたいと思う.
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# by patyakatya | 2005-02-26 05:44 | 遠近法
今月上旬に東北旅行に行ってきました.3泊4日で龍泉洞→平泉→乳頭温泉・鶴の湯→アッスルスキー場→盛岡市街と回ったんだけど,その中で,もうすぐにでもまた行きたいと思ったのは鶴の湯アッスルスキー場と光源社(喫茶店とか伝統工芸のお店とか併設してある元出版社.庭先からかっこいい北上川&岩手山も見ることができる・盛岡市街)と肉の米内(前沢牛の焼肉がチョー旨い・盛岡市街)です.特に鶴の湯とアッスルスキー場(あるいは田沢湖スキー場)のコンボはマジお薦め!なので,今日はちょっとそのことについて書いてみたいと思います.
秘湯で有名な乳頭温泉,実はスキー・スノボの拠点にもなるようです♪鶴の湯からアッスルまではバスで10分くらいだけど,宿泊したら無料で送迎してくれました,てか「田沢湖高原温泉」バス停の待合室が鶴の湯送迎バスの拠点なんだけど,そのバス停がアッスルの麓にあるんだよね~.だから田沢湖駅と鶴の湯の途上にスキー場があるって感じなんで,これは結構便利だと思いますよ.でもバスの運転手さんの話だと,最近はめっきりスキー・スノボ客が少なくなったとか.乳頭温泉スキー場というのもあったらしいですが,数年前に閉鎖されてしまったようです.温泉&スキー・スノボって凄く楽しいレジャーだと思いますが,東北は競争が激しいのかな.でもアッスルだって凄い良かったですよぉ.乳頭温泉の良さは言うまでもなく色々なところで宣伝されてるし.実際,冬の鶴の湯も素晴らしい所でした.雪の壁の中を送迎バスで抜けていくワクワク感,古い木の宿の前に連なる雪灯篭,保存食だけで作られた美味しい食事,物凄い熱い内湯に香る木の匂い,,僕達は2号館に泊まったのですが,部屋は安アパートみたいで,廊下をどたばた歩く他のお客さんの足音も個人的にはhitでした.手洗い所は共同ですが,水洗で清潔感があって充分良かったです.宿泊のお客さんは平日でもやっぱり結構沢山いましたが,何故かお風呂は結構空いてました.
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写真は本陣の軒先です.干してあるのは保存食かな..
さて,アッスルで滑ったのは鶴の湯投宿の次の日です.「レンタルスキーショップ田沢湖」でバートンの初心者用板を3500円でレンタルしてスノボしました.僕はスノボがこれで2回目ですが,これがまた,もう,結構楽しかった.スキー場は平日だからかも知れないけど全然人がいなかったです.そのくせ結構でかいのでかなりプライベートゲレンデ状態.しかも超パウダースノーが積もりまくっててこけてもほとんど痛くない!更にスノボ全面OKだし初心者用板はやたら曲がるわリフト代は安いわホント最高でしたよ.割と近くに田沢湖スキー場というのがあって,中・上級者はそっち,初心者はアッスルって感じでコース設定されているようです.修学旅行生が一応いたんだけど,それにしても人がいなかった..潰れちゃうと困っちゃうので,是非皆さんも一度,行ってみては下さらないでしょうか?よろしくお願い致しますm(_ _)m.フィッティングルームは男女兼用が2つ,ロッカーも8個くらいしか無かったので,あんまり混みすぎてもやっぱり困っちゃいますが..でもそんなこと絶対なさそうだけど..ゲレンデ徒歩1分の場所に温泉ホテルが林立しているので,そこに泊まるのも便利かも知れませんね.

以上で鶴の湯&アッスルの宣伝終わり.ところでこちらがお客さんということもあってか東北はとても親切な人が多くって,それもとっても良かったです.是非また近いうちに行きたいなと思っております★
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# by patyakatya | 2005-02-25 16:41 | たまには日記でも

感覚器の嗜好,頭の嗜好

認知の仕組みを2種類に大別して考えてみると,僕の中で道理が通ります.一つは差異や個性への興味,もうひとつは同一化への興味です.前者を感覚器の嗜好,後者を頭の嗜好と呼ぶことができるでしょう.
感覚器が差異や個性を好む証拠として,僕はまず第一に,親しい人の顔を見続けると急にそれが見たことのない顔にみえてくるという現象(ゲシュタルト崩壊)を提出致します.また第二の証拠として,青山二郎さんの『眼の筍生活』の文章を抜粋する.

――それが美術品といわれるのは,独自な一つ一つの形態がそこに在って,それが他と違わなければならぬ大事な所で,他と違っていなければならないのです.全体としてはどの唐津でも,唐津は唐津らしいのですが,そこが他の如何なる唐津とも違っているという点が大事なのです.これを見落とすことは出来ません.

二郎さんのこの文章は,絵心のある骨董屋が長年の秘蔵品を描いたつもりの絵が,二郎さんからすれば似ても似つかぬものであったというエピソードの直後に位置している.二郎さんの筆は以下のように続く.

――知らず識らずにこうして頭の助けを借り過ぎている我々の眼が,物の「在り方」ともいうべきその形態を,先ず以って失念して異としない点を私は注意して見たいのです.
――物の「在り方」は美の鑑賞なぞといううっとりした眼に,最初の印象を許すものではありません.一眼見て惚れたといいますが,文字通りそれは好き好きというもので,それとこれとは別の問題であります.――

これらの文章は,同時に,「頭」が同一化の嗜好を持つということも明らかにしています.「唐津は唐津」であるとして同じであると「考え」てしまうとすれば,それは頭の働きの所為であり,「うっとりした眼」ということは,頭の働きが感覚器を左右しているということです.これは呪物の話と全く同じ話です.

ところで,「感覚器」と「頭」という用語の使用はあまり適切ではないかもしれません.学問的には「知覚の低次機能」と「知覚の高次機能」とでも呼ぶべきなのかもしれません.しかしここでは,解りやすさを考慮して,それぞれをやはり「感覚器」と「頭」と呼ぶことに致します.

青山学院の校長先生は,やはり頭よりも眼の方に信頼を寄せていたんだと思います.「眼利き」というのは,当然ながらそういうものなんだろうと思います.でも一方で,頭による同一化への嗜好も,僕にはそんなに悪いことには思えません.例えばある一つの単語に対して(「図書館」でも「美しさ」でもなんでもよいです)我々が持つイメージは,同一化の最たる結果だと思いますが,我々はそのような同一化の結果として存在する「イメージ」に対して,そこはかとない豊穣さを感じることができるのです.それは世の中を把握する大切な方法であると同時に,単純な「おもちゃ」としても利用できます.「矛盾」という概念を基にして絵を描いたエッシャー,「濁音時代」というルールに沿って創られたCM,「プリニウス」に関する澁澤さんのエッセイ,,,同時に,ただ見えた景色を描いたために名作と呼ばれるようになった絵というのも,確かにこの世の中には存在するらしい.

細部に神が宿る.神が宿った細部は呪物となり,頭の領域へと繋がっていく.それならば一つのポイントは,感覚器の領域と頭の領域の境目を何処にするのか,ということになるだろう.そもそも眼の領域の向こう側に頭の領域がある,と考えてもよいのだろうか.人は見えなくなったときに初めて,頭を利用するのだろうか.脳は近いと思っていたけれど,本当はずっと意識にとってさえ脳は遠い場所なのだろうか.


こういう人間の在り方に関して,どう考えていけばよいのかはまだまだ結論がでそうにもありません.とりあえず,二つの嗜好が人間には備わっているということ,そして折角そういう複雑な性質を備えているのだから,そういう不思議な嗜好を楽しむことが重要なんだということ,を肝に命じて行こうと思っております.蛇足ですが,「部分と全体の関係性」というコンピュータサイエンスの一つのトピックの考え方も,なんとなくこの方向性が正しいんじゃないかなと思います.
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# by patyakatya | 2005-02-24 19:08 | 同じという事,違うという事
・博物のコレクションについて
この世の中に同じものは二つとしてない,その一方で精神は一般化あるいは普遍化による事物の把握を行わざるを得ない,それじゃあどこに境界線を引こうかという話になりますが,そういう線引きの最前線が博物館という場所,博物誌という書籍であった時代がおそらくは長く続いたんだと思います.そして,そのような線引きを科学的に行わざるを得ないことの「詰まらなさ」が(すなわち自然科学の本質的不条理さ・理解し難さが)博物学の衰退の一因であろうと僕の直観がささやいている.

その一方で,博物学には,というよりも正確には「博物のコレクション」には,明らかに,全て異なるモノの集合による,一つの普遍概念の顕在化という効力が存在するように思える.この時すべてのモノは呪物としての,すなわちイマジネーションの憑依物としての機能を果たすことになる.そして,それら呪物のコレクションは,独特のユートピアを(精神の補間機能を利用して!)形づくり,独特の奥深さを我々に感じさせてくれるのだ.「博物のコレクション」も様々だが,ここでは書籍の中に存在するそれらを,なんとなく取り出してみる.

―― わたしたちもまた,子供の頃,役にも立たぬ壊れた時計の部分品だとか,長火鉢の漏斗から盗み出したお祖父さんの眼鏡の玉だとか,スポーツマンの従兄弟にもらったメダルだとか,練兵場で拾った真鍮の雷管だとか,色とりどりのビイ玉だとか,つやつやしたドングリの実だとか,乾燥したトカゲの死骸だとか,万年筆のキャップだとか,鎖だとか,ゼンマイだとか,鉛の人形だとか,フィルムの切れっぱしだとか,短くなったバヴァリアの色鉛筆だとかいったようなものを,ひそかに箱のなかに蒐集することに,得も言えぬ快楽を味わった記憶があるであろう.『夢の宇宙誌/澁澤龍彦』

―― 一,二歳の保育園の子どもたちのお散歩について行った時のことです.溝の中を歩いている子,溝の蓋から小石を落としている子,葉っぱをちぎっている子,毛虫をじっと見ている子,清掃車を見つけて駆け出す子,飛行機を見ていて後ろにひっくり返りそうな子,犬を触ろうとしている子,怖くて側で見ている子・・・.同じ場所でも,それぞれの子どもがいろいろなものと出会い,立ち止まり,思い思いの遊びを展開していました.『遊びを育てる/野村寿子』

意識は「線引き」よりも「全体化」すなわち「ユートピア化」を好むはずである.だから白鉛鉱も緑鉛鉱もとりあえずは「鉱物」と名づければいい,それらの色が違うとかは見れば解る,見れば解る,だから違いがわかれば別々の名前をもう一度つければいい,なにを言いたいかというと――自分でも良く解りませんが――多分,違うということは(この世の中に同じものは二つとしてないのだから)ほっといても解るのだから,全体性を発見するということが意識の(すなわち今こうやってコントロールできる/されてる「僕」の)大切な役割なんだろうな,ということを再認識した,ということなんだと思います.

違いは知覚すれば解る,解らない違いは存在しない違いである,だから違いは解らなくてはならない,しかし違いを語るということは,解るという事に比べればあまり意義は無いのかもしれない..「同じ」というのは理屈だが,「違う」というのは理屈ではない,ということなのかもしれない.とりあえず違いの解る男になりたい.
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# by patyakatya | 2005-02-23 17:00 | 開いたユートピア
茂木健一郎さんの美しい言葉を借りれば,思いもよらぬ事実に触れた時,「世界のココとアソコが繋がっているという感覚」を感じることが確かにできる.特に少なくとも数学に関しては,ペンローズによればその創造主の存在を信じることはむしろ合理的であるらしい.すなわち,あらゆる数学者の理知はそのような数学的構造を造った覚えが無いということである.創造主による創造物に相対するとき,ヒトはその見方・規約を適切に選ぶことによって,新しい構造あるいは関係性をそこに発見することができる.このような関係性は,確かに全て「事前に用意されているもの」であるが,しかしながらその重要度,あるいはその奥深さに関して,一時的にせよ明らかに優劣が存在する.この種の特徴,すなわち複数の可能性から人びとがある種の構造を発見(選択)することによって分野が発展していくという特徴は,アルゴリズムやパズルといった事象群に関しても同様に見受けられる.

だからなんだといえばそういう風に考えられるというだけです.でもそういう風に考えられるということ自体が面白いと僕は思います.
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# by patyakatya | 2005-02-07 01:26 | 用意された(豊かな)世界
「美しさ」というものは発見されるものである.だから美しさという感じと秘密という感じは,どこか秘密の部分で繋がっているような感じがなんとなくする.この感じは美しい感じであり,そのこと自体が発見であり,したがってこの合わせ鏡のような終わりの無い構造自体が魅力的になる.

推理小説というジャンルを眺めれば了解できることだが,全ての秘密は彼にとっての呪物(フェティッシュ)であり,秘密を解読する瞬間は常に想像力が解放される瞬間でもある.

ところで,発見という行為は,工学的には相互情報量という観点から捉えることが(一応)できる.その意味はかなり簡単で,相互情報量が多い「領域」とは,すなわちその「領域」に関して「一を聞いて十を知る」ことができる領域である,ということになる.相互情報量という考え方のポイントは,最初から情報が見える領域ではなく,一を聞くことによって初めて豊富な情報を見ることができる領域こそが有用である,という点にある.カオス解析では相互情報量が多い領域のことを「カオスの縁」と呼ぶらしい.

考えてみれば,確かに人は相互情報量を多く得られる行為(したがって,相互情報量の多い領域での行為)を喜ぶ傾向にあると思う.例えば囲碁なんかは一手一手で得られる相互情報量が多い遊びなんだろうなという感じがして,それが面白さの一因なんだろうなと思われる.きっと棋譜の中には秘密と発見が物凄い密度で渦巻いているのだろう.また,いうまでもなく数学的帰納法によって無限の数列を想像するということは,多量の相互情報量を得るということに繋がるのだろう.

こういう工学的な考え方は必ず何かをそぎ落としているから,だから結局モノを作るためだけに存在するわけで,だからこの考え方を発展させて何かを作らないと結局面白くないなと思ったよ.
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# by patyakatya | 2005-02-07 01:25 | 複雑さ,あるいは情報理論
チェルフィッチュが「ポスト*労苦の終わり」を上演することを知ったので,大好きだった「労苦の終わり」を見たときの感想文を書きます.

*「労苦の終わり」のストーリー
結婚に関するお話.ピンとくるテーマだったので面白かったというのもありました.
*登場人物(漢字は適当に充てました)
今泉君,順ちゃん,etc.
- - - - -
労苦の終わりはイメージが役者に乗り移るという確固たる事実の深奥を感じさせてくれた.イメージという用語の意味はほとんど「登場人物」という用語と同じだが,「人の脳の中にしか存在しない」という事実を明確にするために敢えてイメージと呼ぶ.脚本はほぼモノローグの連続として進行していく.モノローグにおいて順ちゃん(イメージ)や今泉君(イメージ)は伝聞として演じられることも多い.ある独白が伝聞であるかどうかという境界線は緩やかで曖昧なものであり,伝聞の引用者(という位置付けのイメージ)が果たして誰なのか・何なのか必ずしも明確でないシーンも存在する.また,役者とイメージは二部グラフ構造で結ばれており,複数の役者がお互い重なりあう複数のイメージを実現している.したがって存在感を感じるのは役者に乗り移る(役者のパーソナリティではない)匿名的なパーソナリティ(=イメージ)そのものである.我々はただ,繰り返される強い匿名パーソナリティの代替を目の当たりにして,いつしか自分の中の今泉君と順ちゃんを強く想像するようになる.それは役者さんAや役者さんBとは確実に異なった人格であり姿かたちであり,しかし動きの癖や性格を類推することはできる.すなわち,2部グラフ構造による構成は役者個人のパーソナリティとイメージの違いを意識的に分離してくれる.「彼ら」のイメージが僕にとっては身近な存在であったため,順ちゃんや今泉君はあるときは友人Aのイメージと重なり,またある場面では友人Bのイメージと重なりながら普遍的であり続ける.

舞台上には何があるのか?イメージを受け入れる器としての役者が存在するのは間違いない.その器に何かが入り込む瞬間と入り続けている瞬間と出て行く瞬間が連続して現れる結果,それが本来的に器であり更にどのような器であるのか,ということを観客は強く意識できる.すなわち役者個々人の特質を感じることができる.役者さん達は,恐らく自ら制御できる部分と制御できない部分双方に対して,ある程度の自信を持っていると思われる.だから器としての自分を見られてもたじろがず,その自信が舞台を支えているのだろうと思われる.舞台がちゃんと支えられているから客席ではビールを飲んでもよいことになっている.役者の中に存在するイメージを揺さぶるマイクの声.揺さぶられる瞬間,彼らは一部の精神に意識を集中し,柔らかい部分をあえて造っているように見受けられる.イメージを揺さぶられた結果,そこから湧き出る感情もまた揺さぶられていることが眼に見えて解る.

瞬間瞬間のイメージの具体化はすごくきっちり本当っぽい.動きは(カンディンスキーの抽象絵画のように)具体的であり,台詞のニュアンスも凄くはっきりとよく解る,気がする.流れる感情の変化は解りやすく納得しやすいため(つまりピンと来るため),すっきり受け入れることができた.

乗り移りという出来事を見ていると,我々の,すなわち人間の認識のいい加減さというか柔らかさを感じることもできる.認識の柔らかさは役者によって宣言される適当な開始や休憩の合図を納得できることからも経験できる.妄想としてのみ存在し現実には存在しなかったと宣言される会話が演じられたとき,我々は詩の威力を体験するとともに,やはり認識の柔らかさを感じてしまう.この「良い加減さ」は僕らの美徳であるとともに欠点でもあるのだろうか.

劇場に流れる時間になんというか小宇宙を感じた.熱に浮かされたような役者のテンションは奇妙に抑揚されており,モノローグの最中でその感情が乱暴に途切れることは全くない.彼らの抑揚はストイックに訓練された結果であるかのような,知的な印象を与える.
舞台の時間的な構造がどのようにプロットできるのか興味深い.入れ子,繰り返し,交差ぐらいしか語彙が思い浮かばないけど,いったいどんな感じなんだろう.脚本は時間軸が多少狂いながらも,一つの抽象的な人生が確実に前進(すなわち結婚→別居)して終了する.全体として,一筋の人生しか持てないヒトの視点と,多数の人生をずらしながら眺めることができる神の視点の違いを類推することもできる.自分の人生がある視点から眺めれば一つの小宇宙の構成要素になりうるという事実は,我々を幸せにするのだろうか.それとも我々の人生一つ一つが,実はズレ幅を持った一つの小宇宙なのだろうか.これを見ること(あるいは演じること)ができたという事実を考えると,答えは明らかに後者だろう.

この舞台はつくづく幻想的だと僕は思う.イメージを仔細に形づくり,一つの小宇宙を構成する.ヒトとヒトの間に存在する超えがたい溝を描くとともに,それらと共存するかもしれない幸福を描く.両者の間の接着剤はずばり愛だったりする.超えがたい溝は,厳密に考えれば切羽詰った問題だけれど,思い切って考えれば遊びの対象であり,したがってそれは幻想的になる.思い切りも愛も度量の大きさだ.ほんとに面白かったよ.お薦めです.
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# by patyakatya | 2005-02-05 14:51 | 万物流転

奥行きの単位

あらゆる呪物に対して予感される奥深さの,奥行きの単位とはどのようなものなんだろう?歴史的な奥深さ?地理的な奥深さ?費やされた時間の奥深さ?時間的,空間的な奥深さが確かに大切であるように思えるのは,例えば一つの小石に宇宙を喚起される人間の心的働きを思い起こすことができるからである.宇宙が永く広大でなければ,このような想像は生まれないだろう.

ところで澁澤龍彦の「胡桃の中の世界」によると,コクトーは「ある物体を大きいとか小さいとかいうのは間違いで,近いとか遠いとかいうべきだ」と考えていたらしい.奥行きという感覚は当然「近い・遠い」の感覚であり,「大きい・小さい」の感覚じゃあない.クサマトリックスにあったLEDと合わせ鏡に包まれた梯子の作品を思い起こすと,コクトーの言っていることは凄く良く解る.
今は生態心理学が動物に適切な単位系を再構築するべく頑張っているけど(といっても流石に呪物の奥行きの単位については研究していないと思うけど),ギブソンよりも随分前に生きたコクトーのこの言葉も,ギブソンの著作に似た「解りやすさ」を感じさせると僕は思う.この「解りやすい」ということは生態心理学にとって重要なポイントであるから,そういう意味でコクトーを同じ感じに捉えても良いんだろうなと思っています.
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# by patyakatya | 2005-02-04 01:57 | 遠近法

八百万の神について

八百万の神が八百万のクオリアを表しているとする.八百万のクオリアから事物の深奥に対してどのように近づくことができるのだろうか.八百万のクオリアの向こうに道が繋がっているという「直観」は何なのだろうか.どう思いますか?
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# by patyakatya | 2005-02-04 00:07 | クオリアという考え方

開いたユートピア

ユートピアは何処にも無い場所だから当然外側は閉じていることが多い.例えば僕は今まで本の中にユートピアを見ることが多かったけど,亀とアキレスみたいにそういう書物の中に吸い込まれることはなかった.机の上のビールの缶の中には何かがあるかもしれないけれど,残念ながら飛び込めない.
そういう場合どうするかというと,人は普通想像力を使ってユートピアの内側に進入する.そして内側への進入といえば再帰構造や自己言及構造がすぐに思い浮かぶ.ホフスタッターの本を読んだせいで,僕はユートピアの内側に更にユートピアが存在する可能性はかなり高いんだろうなと思ってしまう.まるでマトリョーシカのように,エビス缶の中にはまたエビス缶がある.そうやって無限の展開を予感することができる人間の理知(ポアンカレがそう呼んだ)というのは凄く面白い仕組みだ.

似たような違うような話を次に続けます.

科学も自然も表現も,最初は全てヒトにとっては不条理である.例えば僕にとって,なんでプラモデルが組み立てられるのか,プラモデルが組み立つとはどういうことなのかは,佐藤雅彦研究室による映像を見たうえでもなお不思議でしょうがない.そういう不条理をいくつ飲み込んで条理に消化していけるか,それが生きていて楽しいところなんだろう.
ポーのユートピアもボルヘスのユートピアも南方熊楠のユートピアもペンローズのユートピアも,根本的には僕の条理とは関係ない不条理である.だけどこれらの不条理は僕にとってのフェティッシュ(想像力の対象)になりやすい(蛇足だけどフェティッシュになるユートピアというのはちゃんとしたユートピアということなんだろうと思う),つまり想像力を用いてユートピアの内側に進入することができる,だから条理として理解することができる.そして,これが凄く大切なことだけど,これらのユートピアを覗いてみると,その奥の方には,なんとなく奥深く続く道がありそうな感じがする.奥がありそうだという予感は外れることも多いかもしれないけれど,少なくともそうやって奥深い存在を予感できるという人間の能力(これは熊楠が似たような事を行っていた気がする)は,凄く大切な力であると僕は思う.そして,表現をするヒト(全ての脳は表現に向かうと養老先生が書いていた)としての自分を考えた場合,そしてヒトが作るモノはすべて結局ユートピアにならざるを得ないのだろうと考えた場合,奥深くへと開かれたユートピアを構築するということは,他人にとっての自分という意味では,すごく大切なことの1つなんだろうなと考える.ところで全然関係ないかもしれないけど,底の浅い男という表現は,少しはこういうことにも関係しているのかもしれないなと思った.

というわけでブログはじめました.
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# by patyakatya | 2005-02-03 19:33 | 開いたユートピア