興味深いパラダイムに対する考えを積み重ねる場にしたいです.


by patyakatya
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面白い学問

南方熊楠の思想について書いた「森のバロック」を久しぶりに読んでいる.「森のバロック」に描かれた思想が熊楠のものなのか,著者の中沢新一のものなのかは微妙なところだと思う.まあそういう起源に関する検討は時間が勿体ないのでしないとして,とりあえずその中身を見てみると,世の中が「物不思議,心不思議,事不思議,理不思議,大日如来の大不思議」から成り立っているっていうのが結構なんか感覚的に近い(もちろん,一方的な誤解という可能性も大なのですが,)考え方な気がして面白い.しかしこの本は具体を好む熊楠について書いてるにも関わらず全然抽象的(かつ松岡さんが千夜千冊で言うように多分にナラティブ)なので,つまり具体が好きだから読んでいるのに抽象的な文章が眼に入ってくるので,かなり読んでいて苦痛にさらされる.

この世の中と人間の頭は本当に不思議だ.科学法則や数学が,この世あるいは自然を解きほぐす優れた道具になっているのは,多分人間の頭に多大な原因があるのだろう.自然はもっと寛大だから,おそらくどんな法則でもその宇宙人の頭と感覚器の構造しだいでは真実になりうるはずだ.あるいは法則は具体的な脳と感覚器からしか生成されない.ようするにサムシンググレートとかいうのは存在しない.人間と無関係に存在するのは,多分「不思議」だけなんだ,というか,無関係に存在するものは「不思議」としてしか感覚できないのかもしれない.だから科学法則は断じて宇宙に存在するわけじゃあないわけである.だから科学法則をそんなに神聖化する必要はないのである.熊楠が言ってることは全然そういうことじゃないと思うけど,こういう考えもちょっとは面白いと思う.

不思議に対する筋の通し方は人それぞれだ.つまり世界観やら人間観やら成功の法則やらは人それぞれだ.筋の通し方が上手い人は「奥」に進むことができる.奥ってなんだ?とりあえず,奥に進んだご褒美は悦びかもしれない.渋澤さんは熊楠の学問を「悦ばしき知恵」といった.

作り方を作るというのも,ようするに筋を通すということだろう.
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# by patyakatya | 2005-06-30 01:14 | 南方曼荼羅
茂木さんの最新刊に,個人個人の代表的な創造物は自分自身である,というような事が書いてあった.全くその通りだと思う.
当たり前だけど,人間はどちらかというと二酸化炭素やら神経パルスやら筋細胞やらを創りだすような構造にチューンナップされた存在である.だから,どちらかというと陶器やら機械やら絵画やらを作るのには向いていないんだと思う.

人間が創れる最も複雑なものは自分自身.スポーツや恋愛は,そういった自分自身を創造するという能力を,上手に利用して楽しく過ごすための仕組みと捉えることもできる気がする.
スポーツは基本的に自分の身体を改造した後に,自分の身体を動かして行う.恋愛も自分を変えるチャンスだ.自分を変化させるという創造行為は,全ての創造行為の中で人間が一番得意とするところだから,素晴らしい創造物が誕生する可能性は'比較的'高い.敢えて困難な道を通って,(素晴らしい創造物が誕生する可能性が'比較的'低い)陶芸やアニメーションなんかに血道をあげる人からは,なんとなく切実な感じがする気がする.でもひょっとしたら,陶芸とかもまた,陶器を創ると同時に自分を創る作業なのかもしれない,というか絶対そうなんだろうな.

青山二郎の作品は本人そのものだ.その作品は,本人が好いた骨董よりももっと,他人に大きな影響を与えていたんだと思う.すごく当たり前のことなんだけど,面白い.

身体も精神も変わり続けていく.人間も含めて,この世のモノってほんとに不思議だなと思う.
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# by patyakatya | 2005-06-16 00:11 | 万物流転

本を読む

雨の日に本を読むのは楽しい.でも,読みたい本が身近に無いと,その理不尽さに怒りが沸いてくる.

理不尽ベル.さあ出番ですよ.

今日は久しぶりにクリスマスキャロルとか,ジムボタンとかモモとか蓬莱学園とか,昔読んだ絵本みたいな本が読みたくなったんだけど,近くに無いから諦めて武井武雄の絵を見ながら落書きすることにした.さっき帰ってきてから朝顔に水をやったら,なんだか気持ちが和んだ.「植物を育てると贅沢な気持ちになる」っていうm君の言葉を思い出す.改めて良いセンスだなと思う.
朝顔は葉っぱの表面がさっぱりしてて好きだ.創造と消費のどちらを身体が欲しているか見極めるのは,案外難しいと思う.
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# by patyakatya | 2005-06-15 23:36 | たまには日記でも

自然科学ってなに?

数学や物理や情報理論や計算機科学は何故こんなに上手くいくのか、という問題があると思う。すなわち、叡智を絞るとなぜ、ある程度(自然に対して)適用可能な一般法則を考え出す(あるいは発見する)ことができるのか、という問題。あるいは、叡智を絞るとなぜ、矛盾を感じさせない理論体系を構築することができるのか、という問題。

数学や物理や情報理論や計算機科学が上手くいくというのは厳然たる事実みたいで、ポアンカレやペンローズや茂木先生や甘利先生など、おそらく無数の専門家がその驚異を文章に記していると思います。

この問題に対して素朴派は、自然界に存在する法則を人間が発見しているから、と考える。少なくとも西洋文明の影響の下できちんと勉強した人のほとんどは、一度はこういう考え方に辿り着くはずだ。だけどこの場合、「そもそも自然界に存在するってどういうこと?」って疑問がどうしても涌いてくる。素朴派の人たちは、この疑問の解答を「大きいもの」の存在に帰着させたりして、割と素朴に考えるから素朴派と今読んでいる。

それに対して”制約条件派”とでも呼ぶべき人たちがいる。ゲーデルの不完全性定理が流行ったのは、そういう「制約」の証拠として皆が考えたからなのかもしれない。脳科学の一番面白いトピックはここら辺にある。

時間がなくなったので続きはまた今度書きます。
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# by patyakatya | 2005-06-11 13:26 | 数学・アルゴリズム

夢想について

ガストン・バシュラールが述べるように、夢想は本質的に個的で、従って解り合えないものだと僕は考える。しかし人は他人の為にだけ生きているわけじゃあないので、自分ひとりで楽しむ遊びがあったって、もちろんいいんだろうと考える。夢想は一人遊びだ。それは個的であるがゆえに、希望にも夢にも精一杯の楽しみにもなる。一生解り合えないことは沢山ある。だけど解らないからってそれを気に入らないと考えるのは間違いだ。自分一人にしか解らない夢や希望や楽しみは誰にでもある。そういうものをもっともっと認めていきたい。
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# by patyakatya | 2005-06-10 13:17 | クオリアという考え方
意識と無意識をそれぞれ「生産者」として考えると、意識よりも無意識のほうが「他とは違うもの」を作るのに適しているように思える。それはまあ「同じ」を作るのが意識の特性であるからだと思うんだけど、じゃあなんで「無意識」は(かろうじて?)他とは違うものを作れるのか?

無意識がどうして「他とは違うもの」を作れるかというと、それはやっぱり身体あるいは脳が基本的には「他(他人の身体や脳)とは違うもの」であるからだと思う。身体や脳のそういう「他とは違う」という側面を上手く利用して、人は「トーン」、すなわち「他のどのクオリアとも異なるクオリア」を作り上げるのだと思う。そして、身体や脳の「他とは違う」という側面を上手く使うためには、「"同じ"というものをどうしてもを志向してしまう意識」をあんまり使わない、つまり「無意識で作る」という手法が有効なんだろう。無意識だから「トーン」は当然意識的には制御できないけど、長いスパンを通じて、例えば感性や肉体を制御するように制御することはできるだろう。

#もちろん、「他とは違うもの」がただ「他とは違う」から良い生産品になるとは限らない。生産品のよしあしの評価基準ってのは、多分これとは全然違う話になるんだろうと思う。
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# by patyakatya | 2005-06-09 13:13 | クオリアという考え方
15年前に流行った蓬莱学園というゲームで描かれた空洞の地球は,とてもかっこよかった.地球の内部に計り知れない自然が存在するであろうと夢想するのは,自然に対する深い深い思い入れの表れに間違いないと思う.
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# by patyakatya | 2005-04-25 22:25 | 用意された(豊かな)世界
前のエントリーを書いている最中に思ったことだけど,ビットからアトムへというユーザインタフェース分野の流れに感じる違和感の源が少し解った気がした.違和感は,この流れがアトムの手入れではなく,アトムのコントロールに主眼を置いている点にある,気がする.なんども書くけどコントロールという考えは生き抜くためには必要だけどやっぱりちょっと見苦しい.歴本さんのスマートタイルをエクプローラサイエンスで見たときは凄い衝撃を受けたけど,でもあれが「硝子の都合」を考えた存在であるとはやっぱりいいがたい.だからできれば控えめでいて欲しい.良い発明だと思うけど,手入れではないという当然のことも忘れないでいたいと今思いました.
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# by patyakatya | 2005-04-17 04:18 | たまには日記でも
このエントリーはひょっとしたら全然的外れかもしれないけど,養老先生のインタビュー記事と「手入れ」に関する幾つかのエッセイを読んで面白かったので一応書いておきます.チェルフィッチュに参加している役者さんの身体(声の部分も当然含む)というのは,なんとなく手入れが行き届いている感じがする.養老先生によれば,手入れは相手の都合を考慮した営為で,それに対してコントロールは相手の都合を考慮しない営為であるということになる.岡田さんはちゃんと相手(役者さんの身体や周辺の身体)の都合を考えた演出を行っている気がする.なんかすごく当たり前なんだけど,でも演劇してる人でもダンスしてる人でも稽古や普段の心構えで身体を自由に改造して良いと思ってる人が結構いる気がする.たとえ今の身体が嫌いだとしても,それでもその身体の都合を考えてくれないと,その身勝手さで見てるこっちの息が詰まっちゃうよ.できることはなんでもして良いってわけじゃあないでしょう.もちろんチェルフィッチュ以外にもコントロールではなく手入れをしているパフォーマーは沢山いるんだろうけど,僕は寡聞にして知らないのでここでは言及できません.

閑話休題.チェルフィッチュは身体に対しては「手入れ」しかできないという感覚的な制約に従っている.とはいえ,もし特色がその制約だけなら,おそらく気持ちは良いけど対して刺激の無い作品しか作れないだろう.「マンション」とかそんな感じだった.ところが,チェルフィッチュは「労苦の終わり」という(少なくとも)僕にとってすごく面白い「表現」をこの間作り上げてきた.これはすごいと思う.でも「ポスト*労苦の終わり」はぼかし方が解りやすかったのとストーリーがヘビーだったのとで「労苦の終わり」ほどには面白く感じなかったです.でもやっぱり次も観に行くと思う.頭と感覚器の両方に訴えかけてくる舞台はあんまり無いと思う.
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# by patyakatya | 2005-04-17 03:53 | 万物流転

一番遠い場所

創る・知る・感じるという行為群は,結局全てはおもちゃに過ぎない.他人におもちゃを提供したり他人がおもちゃを作る下準備をしたりしながらみんな生きていく.そして,そうやって創ったおもちゃで,一緒に遊びながら生きていく.遠い場所は世界中に転がっている.皆と一緒に遠い場所まで歩いていきたい.そのことこそが,一番遠くに向かう最良の道なんだと思っている.一番遠い場所は,他人の中にある.一人で歩きたくない僕はそう思うことにした.
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# by patyakatya | 2005-02-26 06:23 | 遠近法