興味深いパラダイムに対する考えを積み重ねる場にしたいです.


by patyakatya
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数学の世界には完全にランダムな,すなわち「なんら情報を持っていない」現象が存在するとチャイティンは述べている.これは,「世の中には(情報理論的に見れば)なんら情報を持っていない現象が存在する」ということに繋がる.ところで,(脳も含めた)ハードの「違い」がクオリアの多様性を生み出していると考えられる.つまり,クオリアはハードに固有の現象だ.この「ハードごとに固有のクオリアが存在するという事実」と,「(情報理論的には)なんら情報を持っていない現象が存在するという事実」の間には,なんらかの関係がある気がする.これはちょっと面白い問題だと思うので,少しずつ考えていきたいと思っています.
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by patyakatya | 2005-08-20 12:25 | クオリアという考え方

計算の普遍性

五感とは独立に,その存在を自然界の至るところに感じることのできる概念を並べてみる.

因果
構造
計算

計算について.
チャイティンの本によると,チューリングの偉大な業績のひとつは,「計算の普遍性--ほとんど全てのプログラミング言語が,可能なアルゴリズムを全て表現できるという事実--」を示したことにあるという.計算が普遍的であるということは,つまり,プログラミング言語に限らず計算が様々な形式で現実化されている可能性があるということなんだろう.人間の生命維持機能や,意識だって計算かもしれないという,一つの態度の根本は,全てこのチューリングの発見にあるように思える.(ちなみに意識については,非アルゴリズム的機能が重要な要因になっているという「皇帝の新しい心」に記されているペンローズの見解の方が現実味があって僕は好きだ.)

それで,何故か今は構造とは何か,というのが非常に気になっています.
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by patyakatya | 2005-08-20 12:05 | 数学・アルゴリズム
住んでいるマンションの前には林があって,そこには沢山の蝉がいて,昼間は勿論のこと,夜中にもときどき彼らは一斉に鳴きだし始める.夜中に蝉が鳴くのは,弟の意見によるとこのマンションの家々の窓の明かりに反応してしまうためらしい.というわけで蝉に徹夜させるのも悪いので部屋の障子を閉めたんですが,すごい蒸し暑いです.

今日はホワイトヘッドの「自然という概念」を少しだけ読んだ.そこには.思考も知覚も自然を把握する道具としては等価である,というようなことが記してあった.

どういうことかというと,ここからは思いっきり僕の意見だけど,つまりクオリアを感じるための知覚能力と,推論やら計算やらを実行するための思考能力は,ともに自然現象を一定の制約条件(具体的には脳神経系のハードウェア的制約)の下で把握するという点で等しいのである.知覚も思考も供に自然現象を理解するための重要な要素であり,例えば知覚の結果(赤の赤さ)の方が推論の結果(一つのりんごを半分に割ると二つになるという普遍的な事実)よりも「自然に近い」ってことはないのである.「一つのりんごを半分に割ると二つになるという普遍的な事実」は「赤の赤さ」と同様に,この世界に存在している.

ホワイトヘッドの意見と見方を変えて,逆にこの二つに違いがあると考えてみる.そうすると,その違いは,知覚プロセスと思考プロセスそれぞれに関わる脳神経系の違いに起因するものしかないんじゃないかと僕は思う.例えば色を知覚するプロセスは光の波長を分別する能力に長けており,推論を行うプロセスは因果関係を把握する能力に長けている.だからこれらには違いが生じる.こういう違いを「重要な違い」とみなすかどうかは,当然その場合場合の問題意識によるだろう.僕は,人間の知覚プロセスや思考プロセスに見られる上述したような特徴はいわば偶然の産物であり,たいした意味はないであろうから従って重要な違いではないであろうと,とりあえず考えています.


思考と知覚がともに自然に近いということは,つまり「1+1=2」といったような数式が「赤の赤さ」と全く同レベルで自然界に存在しているということでもあり,だから茂木先生が取り組むクオリア問題と全く同じレベルで,「何故数式はなりたつのか」という問題もすごく面白い脳科学のトピックになっているんじゃないかと思うがどうなんだろう.
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by patyakatya | 2005-08-19 01:51 | 数学・アルゴリズム
この間チャイティンの「知の限界」を読んでいたときに(きちんと理解できていないんですが),ふと,「ランダムさ」あるいは「複雑さ」というパラダイムは,「遠近」というパラダイムに対比して捉えれば良いのではないだろうかと感じました.

例えばお勉強という行為を「遠近」というパラダイムを用いてモデル化すると,

#Aを理解する→Aを踏まえてBを理解する→Bを踏まえてCを理解する

という形になるような気がする.地道に先に進んでいくというモデル.
対して「複雑さ」というパラダイムを用いてモデル化されたお勉強という行為は,

#Cについて書かれた文章を,運任せで探し続ける

という形になる.単純だけど大切なのは,運あるいは偶然という要素を考慮しているという点だ.google検索なんかは,この偶然という要素を可能な限り軽減させるから嬉しいわけである.

1.大学における「学際的な学部」と「伝統的な学部」の役割分担は,それぞれ「複雑な世界(答えに到達するには運が必要になる世界)」に対処する学部と,「遠い所に答えがある世界(答えに到達するには時間が必要になる世界)」に対処する学部という風に考えられるかもしれない.

2.ボルヘスの「アル・ムターシムを求めて」は「遠近」っていう考え方を表現した物語だったわけだけど,この「複雑さ」という考え方をラディカルに表現した文章も,多分絶対面白いに違いない.
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by patyakatya | 2005-08-15 12:26 | 複雑さ,あるいは情報理論

覚書

(6月11日の続き)

「制約条件派」は思考という行為に付随するハード的な限界(例えば脳の構造だとか素材だとか)と,ある種の思考形式(例えば因果関係とか数学的帰納法とか)の相性が良いために,人間は必然的に偏った科学を打ち立ててしまうと考える.つまりソフトウェア的な正解はハードウェアに左右されると考える.
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by patyakatya | 2005-08-15 11:49 | 数学・アルゴリズム

数学の歴史について

感覚と理知の合わさったところで,最初ユークリッド幾何学や数論が誕生した.この合いの子達を理知が持ち帰り,内省的に発展させていったところに近代数学(ヒルベルトの形式主義体系,あるいはプログラミングという計算行為の体系)は存在する.理知がある程度好き勝手に発展させたにも関わらず,近代数学が依然として「感覚の理」というか「自然現象」と合致するというのは不思議なことな気がする.理知にも感覚にも身体や脳の構造に起因する限界があるが,その限界性--すなわち身体・脳の構造や組成分--が等しく両者に共通の制約条件を付加するが故に,理知と感覚はかなりの程度矛盾しないて済んでいるのかもしれない.
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by patyakatya | 2005-08-15 11:15 | 数学・アルゴリズム