興味深いパラダイムに対する考えを積み重ねる場にしたいです.


by patyakatya
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カテゴリ:南方曼荼羅( 3 )

熊楠の世界観の影響を受けている.

「ここに一言申す.不思議ということあり.事不思議あり.心不思議あり.物不思議あり.理不思議あり.大日如来の大不思議あり.」
多分,宇宙は不思議の集合とみなされている.

「さて妙なことは,この世間宇宙は,天は理なりといえるごとく(理はすじみち),----,前後左右上下,いずれの方よりも事理が透徹してこの宇宙を成す.その数無尽なり.故にどこ一つとりても,それを敷衍追求するときは,いかなることをも見出し,いかなることもなしうるようになっておる.」
人間は,不思議(の集合)を説明するすじみちを無限に見つけだすことができる,ということだと思う.

「科学とは,----,心,事,物の不可思議の幾分なりともを,順序正しく,早く,人の間に合うように片づくることをつとむべしとなり.祈祷がきくと思わば,その道すじを研究して可なり.神通の実行を望まば,その方法を講じて可なり.道筋だに明ならんは,いずれも科学として用あるなり.」
「次に科学を真言の一部として(せずとも実際然り),宇宙一切を順序立てて,人々の心の働きの分に応じて,宇宙の一部を楽しむことをせしめて見よ.」
科学の楽しさは不思議の懐の広さに抱かれるということ,すなわち様々な理を許す自然の驚異を楽しみながら,自分独自の理を感じて生きる,というところにあるのかもしれない.
ちなみに真言というのは真言宗の真言だと思うけど,じゃあ真言宗の真言とは何なのか,ということはまだ勉強不足です.
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by patyakatya | 2005-07-13 03:16 | 南方曼荼羅
「今の学者(科学者および欧州の哲学者の一大部分),ただ箇箇のこの心この物について論究するばかりなり.小生は何とぞ心と物がまじわりて生ずる事(人界の現象と見て可なり)によりて究め,心界と物界とはいかにして相異に,いかにして相同じきところあるかを知りたきなり.」(南方熊楠が書簡にしたためた文章)
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by patyakatya | 2005-07-07 20:26 | 南方曼荼羅

面白い学問

南方熊楠の思想について書いた「森のバロック」を久しぶりに読んでいる.「森のバロック」に描かれた思想が熊楠のものなのか,著者の中沢新一のものなのかは微妙なところだと思う.まあそういう起源に関する検討は時間が勿体ないのでしないとして,とりあえずその中身を見てみると,世の中が「物不思議,心不思議,事不思議,理不思議,大日如来の大不思議」から成り立っているっていうのが結構なんか感覚的に近い(もちろん,一方的な誤解という可能性も大なのですが,)考え方な気がして面白い.しかしこの本は具体を好む熊楠について書いてるにも関わらず全然抽象的(かつ松岡さんが千夜千冊で言うように多分にナラティブ)なので,つまり具体が好きだから読んでいるのに抽象的な文章が眼に入ってくるので,かなり読んでいて苦痛にさらされる.

この世の中と人間の頭は本当に不思議だ.科学法則や数学が,この世あるいは自然を解きほぐす優れた道具になっているのは,多分人間の頭に多大な原因があるのだろう.自然はもっと寛大だから,おそらくどんな法則でもその宇宙人の頭と感覚器の構造しだいでは真実になりうるはずだ.あるいは法則は具体的な脳と感覚器からしか生成されない.ようするにサムシンググレートとかいうのは存在しない.人間と無関係に存在するのは,多分「不思議」だけなんだ,というか,無関係に存在するものは「不思議」としてしか感覚できないのかもしれない.だから科学法則は断じて宇宙に存在するわけじゃあないわけである.だから科学法則をそんなに神聖化する必要はないのである.熊楠が言ってることは全然そういうことじゃないと思うけど,こういう考えもちょっとは面白いと思う.

不思議に対する筋の通し方は人それぞれだ.つまり世界観やら人間観やら成功の法則やらは人それぞれだ.筋の通し方が上手い人は「奥」に進むことができる.奥ってなんだ?とりあえず,奥に進んだご褒美は悦びかもしれない.渋澤さんは熊楠の学問を「悦ばしき知恵」といった.

作り方を作るというのも,ようするに筋を通すということだろう.
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by patyakatya | 2005-06-30 01:14 | 南方曼荼羅