興味深いパラダイムに対する考えを積み重ねる場にしたいです.


by patyakatya
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カテゴリ:開いたユートピア( 2 )

・博物のコレクションについて
この世の中に同じものは二つとしてない,その一方で精神は一般化あるいは普遍化による事物の把握を行わざるを得ない,それじゃあどこに境界線を引こうかという話になりますが,そういう線引きの最前線が博物館という場所,博物誌という書籍であった時代がおそらくは長く続いたんだと思います.そして,そのような線引きを科学的に行わざるを得ないことの「詰まらなさ」が(すなわち自然科学の本質的不条理さ・理解し難さが)博物学の衰退の一因であろうと僕の直観がささやいている.

その一方で,博物学には,というよりも正確には「博物のコレクション」には,明らかに,全て異なるモノの集合による,一つの普遍概念の顕在化という効力が存在するように思える.この時すべてのモノは呪物としての,すなわちイマジネーションの憑依物としての機能を果たすことになる.そして,それら呪物のコレクションは,独特のユートピアを(精神の補間機能を利用して!)形づくり,独特の奥深さを我々に感じさせてくれるのだ.「博物のコレクション」も様々だが,ここでは書籍の中に存在するそれらを,なんとなく取り出してみる.

―― わたしたちもまた,子供の頃,役にも立たぬ壊れた時計の部分品だとか,長火鉢の漏斗から盗み出したお祖父さんの眼鏡の玉だとか,スポーツマンの従兄弟にもらったメダルだとか,練兵場で拾った真鍮の雷管だとか,色とりどりのビイ玉だとか,つやつやしたドングリの実だとか,乾燥したトカゲの死骸だとか,万年筆のキャップだとか,鎖だとか,ゼンマイだとか,鉛の人形だとか,フィルムの切れっぱしだとか,短くなったバヴァリアの色鉛筆だとかいったようなものを,ひそかに箱のなかに蒐集することに,得も言えぬ快楽を味わった記憶があるであろう.『夢の宇宙誌/澁澤龍彦』

―― 一,二歳の保育園の子どもたちのお散歩について行った時のことです.溝の中を歩いている子,溝の蓋から小石を落としている子,葉っぱをちぎっている子,毛虫をじっと見ている子,清掃車を見つけて駆け出す子,飛行機を見ていて後ろにひっくり返りそうな子,犬を触ろうとしている子,怖くて側で見ている子・・・.同じ場所でも,それぞれの子どもがいろいろなものと出会い,立ち止まり,思い思いの遊びを展開していました.『遊びを育てる/野村寿子』

意識は「線引き」よりも「全体化」すなわち「ユートピア化」を好むはずである.だから白鉛鉱も緑鉛鉱もとりあえずは「鉱物」と名づければいい,それらの色が違うとかは見れば解る,見れば解る,だから違いがわかれば別々の名前をもう一度つければいい,なにを言いたいかというと――自分でも良く解りませんが――多分,違うということは(この世の中に同じものは二つとしてないのだから)ほっといても解るのだから,全体性を発見するということが意識の(すなわち今こうやってコントロールできる/されてる「僕」の)大切な役割なんだろうな,ということを再認識した,ということなんだと思います.

違いは知覚すれば解る,解らない違いは存在しない違いである,だから違いは解らなくてはならない,しかし違いを語るということは,解るという事に比べればあまり意義は無いのかもしれない..「同じ」というのは理屈だが,「違う」というのは理屈ではない,ということなのかもしれない.とりあえず違いの解る男になりたい.
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by patyakatya | 2005-02-23 17:00 | 開いたユートピア

開いたユートピア

ユートピアは何処にも無い場所だから当然外側は閉じていることが多い.例えば僕は今まで本の中にユートピアを見ることが多かったけど,亀とアキレスみたいにそういう書物の中に吸い込まれることはなかった.机の上のビールの缶の中には何かがあるかもしれないけれど,残念ながら飛び込めない.
そういう場合どうするかというと,人は普通想像力を使ってユートピアの内側に進入する.そして内側への進入といえば再帰構造や自己言及構造がすぐに思い浮かぶ.ホフスタッターの本を読んだせいで,僕はユートピアの内側に更にユートピアが存在する可能性はかなり高いんだろうなと思ってしまう.まるでマトリョーシカのように,エビス缶の中にはまたエビス缶がある.そうやって無限の展開を予感することができる人間の理知(ポアンカレがそう呼んだ)というのは凄く面白い仕組みだ.

似たような違うような話を次に続けます.

科学も自然も表現も,最初は全てヒトにとっては不条理である.例えば僕にとって,なんでプラモデルが組み立てられるのか,プラモデルが組み立つとはどういうことなのかは,佐藤雅彦研究室による映像を見たうえでもなお不思議でしょうがない.そういう不条理をいくつ飲み込んで条理に消化していけるか,それが生きていて楽しいところなんだろう.
ポーのユートピアもボルヘスのユートピアも南方熊楠のユートピアもペンローズのユートピアも,根本的には僕の条理とは関係ない不条理である.だけどこれらの不条理は僕にとってのフェティッシュ(想像力の対象)になりやすい(蛇足だけどフェティッシュになるユートピアというのはちゃんとしたユートピアということなんだろうと思う),つまり想像力を用いてユートピアの内側に進入することができる,だから条理として理解することができる.そして,これが凄く大切なことだけど,これらのユートピアを覗いてみると,その奥の方には,なんとなく奥深く続く道がありそうな感じがする.奥がありそうだという予感は外れることも多いかもしれないけれど,少なくともそうやって奥深い存在を予感できるという人間の能力(これは熊楠が似たような事を行っていた気がする)は,凄く大切な力であると僕は思う.そして,表現をするヒト(全ての脳は表現に向かうと養老先生が書いていた)としての自分を考えた場合,そしてヒトが作るモノはすべて結局ユートピアにならざるを得ないのだろうと考えた場合,奥深くへと開かれたユートピアを構築するということは,他人にとっての自分という意味では,すごく大切なことの1つなんだろうなと考える.ところで全然関係ないかもしれないけど,底の浅い男という表現は,少しはこういうことにも関係しているのかもしれないなと思った.

というわけでブログはじめました.
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by patyakatya | 2005-02-03 19:33 | 開いたユートピア