興味深いパラダイムに対する考えを積み重ねる場にしたいです.


by patyakatya
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カテゴリ:万物流転( 4 )

珪化木と貝オパール

ところで,珪化木は樹木の細胞が珪素などと置き換わったもので,貝オパールは貝の形をした隙間にオパールが形成されたものです.ふたつのオブジェはともに,形態と組成分が分離して存在しうることを示しており,そしてまたこの場合においては形態が生き残り,組成分が生き残らないという事実を教えてくれます.写真はmade in USAのものだけど,珪化木は東北地方にも産出する鉱物のようなので,できれば近いうちに見学しに行きたいなと思っています.
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by patyakatya | 2006-03-20 21:26 | 万物流転
茂木さんの最新刊に,個人個人の代表的な創造物は自分自身である,というような事が書いてあった.全くその通りだと思う.
当たり前だけど,人間はどちらかというと二酸化炭素やら神経パルスやら筋細胞やらを創りだすような構造にチューンナップされた存在である.だから,どちらかというと陶器やら機械やら絵画やらを作るのには向いていないんだと思う.

人間が創れる最も複雑なものは自分自身.スポーツや恋愛は,そういった自分自身を創造するという能力を,上手に利用して楽しく過ごすための仕組みと捉えることもできる気がする.
スポーツは基本的に自分の身体を改造した後に,自分の身体を動かして行う.恋愛も自分を変えるチャンスだ.自分を変化させるという創造行為は,全ての創造行為の中で人間が一番得意とするところだから,素晴らしい創造物が誕生する可能性は'比較的'高い.敢えて困難な道を通って,(素晴らしい創造物が誕生する可能性が'比較的'低い)陶芸やアニメーションなんかに血道をあげる人からは,なんとなく切実な感じがする気がする.でもひょっとしたら,陶芸とかもまた,陶器を創ると同時に自分を創る作業なのかもしれない,というか絶対そうなんだろうな.

青山二郎の作品は本人そのものだ.その作品は,本人が好いた骨董よりももっと,他人に大きな影響を与えていたんだと思う.すごく当たり前のことなんだけど,面白い.

身体も精神も変わり続けていく.人間も含めて,この世のモノってほんとに不思議だなと思う.
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by patyakatya | 2005-06-16 00:11 | 万物流転
このエントリーはひょっとしたら全然的外れかもしれないけど,養老先生のインタビュー記事と「手入れ」に関する幾つかのエッセイを読んで面白かったので一応書いておきます.チェルフィッチュに参加している役者さんの身体(声の部分も当然含む)というのは,なんとなく手入れが行き届いている感じがする.養老先生によれば,手入れは相手の都合を考慮した営為で,それに対してコントロールは相手の都合を考慮しない営為であるということになる.岡田さんはちゃんと相手(役者さんの身体や周辺の身体)の都合を考えた演出を行っている気がする.なんかすごく当たり前なんだけど,でも演劇してる人でもダンスしてる人でも稽古や普段の心構えで身体を自由に改造して良いと思ってる人が結構いる気がする.たとえ今の身体が嫌いだとしても,それでもその身体の都合を考えてくれないと,その身勝手さで見てるこっちの息が詰まっちゃうよ.できることはなんでもして良いってわけじゃあないでしょう.もちろんチェルフィッチュ以外にもコントロールではなく手入れをしているパフォーマーは沢山いるんだろうけど,僕は寡聞にして知らないのでここでは言及できません.

閑話休題.チェルフィッチュは身体に対しては「手入れ」しかできないという感覚的な制約に従っている.とはいえ,もし特色がその制約だけなら,おそらく気持ちは良いけど対して刺激の無い作品しか作れないだろう.「マンション」とかそんな感じだった.ところが,チェルフィッチュは「労苦の終わり」という(少なくとも)僕にとってすごく面白い「表現」をこの間作り上げてきた.これはすごいと思う.でも「ポスト*労苦の終わり」はぼかし方が解りやすかったのとストーリーがヘビーだったのとで「労苦の終わり」ほどには面白く感じなかったです.でもやっぱり次も観に行くと思う.頭と感覚器の両方に訴えかけてくる舞台はあんまり無いと思う.
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by patyakatya | 2005-04-17 03:53 | 万物流転
チェルフィッチュが「ポスト*労苦の終わり」を上演することを知ったので,大好きだった「労苦の終わり」を見たときの感想文を書きます.

*「労苦の終わり」のストーリー
結婚に関するお話.ピンとくるテーマだったので面白かったというのもありました.
*登場人物(漢字は適当に充てました)
今泉君,順ちゃん,etc.
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労苦の終わりはイメージが役者に乗り移るという確固たる事実の深奥を感じさせてくれた.イメージという用語の意味はほとんど「登場人物」という用語と同じだが,「人の脳の中にしか存在しない」という事実を明確にするために敢えてイメージと呼ぶ.脚本はほぼモノローグの連続として進行していく.モノローグにおいて順ちゃん(イメージ)や今泉君(イメージ)は伝聞として演じられることも多い.ある独白が伝聞であるかどうかという境界線は緩やかで曖昧なものであり,伝聞の引用者(という位置付けのイメージ)が果たして誰なのか・何なのか必ずしも明確でないシーンも存在する.また,役者とイメージは二部グラフ構造で結ばれており,複数の役者がお互い重なりあう複数のイメージを実現している.したがって存在感を感じるのは役者に乗り移る(役者のパーソナリティではない)匿名的なパーソナリティ(=イメージ)そのものである.我々はただ,繰り返される強い匿名パーソナリティの代替を目の当たりにして,いつしか自分の中の今泉君と順ちゃんを強く想像するようになる.それは役者さんAや役者さんBとは確実に異なった人格であり姿かたちであり,しかし動きの癖や性格を類推することはできる.すなわち,2部グラフ構造による構成は役者個人のパーソナリティとイメージの違いを意識的に分離してくれる.「彼ら」のイメージが僕にとっては身近な存在であったため,順ちゃんや今泉君はあるときは友人Aのイメージと重なり,またある場面では友人Bのイメージと重なりながら普遍的であり続ける.

舞台上には何があるのか?イメージを受け入れる器としての役者が存在するのは間違いない.その器に何かが入り込む瞬間と入り続けている瞬間と出て行く瞬間が連続して現れる結果,それが本来的に器であり更にどのような器であるのか,ということを観客は強く意識できる.すなわち役者個々人の特質を感じることができる.役者さん達は,恐らく自ら制御できる部分と制御できない部分双方に対して,ある程度の自信を持っていると思われる.だから器としての自分を見られてもたじろがず,その自信が舞台を支えているのだろうと思われる.舞台がちゃんと支えられているから客席ではビールを飲んでもよいことになっている.役者の中に存在するイメージを揺さぶるマイクの声.揺さぶられる瞬間,彼らは一部の精神に意識を集中し,柔らかい部分をあえて造っているように見受けられる.イメージを揺さぶられた結果,そこから湧き出る感情もまた揺さぶられていることが眼に見えて解る.

瞬間瞬間のイメージの具体化はすごくきっちり本当っぽい.動きは(カンディンスキーの抽象絵画のように)具体的であり,台詞のニュアンスも凄くはっきりとよく解る,気がする.流れる感情の変化は解りやすく納得しやすいため(つまりピンと来るため),すっきり受け入れることができた.

乗り移りという出来事を見ていると,我々の,すなわち人間の認識のいい加減さというか柔らかさを感じることもできる.認識の柔らかさは役者によって宣言される適当な開始や休憩の合図を納得できることからも経験できる.妄想としてのみ存在し現実には存在しなかったと宣言される会話が演じられたとき,我々は詩の威力を体験するとともに,やはり認識の柔らかさを感じてしまう.この「良い加減さ」は僕らの美徳であるとともに欠点でもあるのだろうか.

劇場に流れる時間になんというか小宇宙を感じた.熱に浮かされたような役者のテンションは奇妙に抑揚されており,モノローグの最中でその感情が乱暴に途切れることは全くない.彼らの抑揚はストイックに訓練された結果であるかのような,知的な印象を与える.
舞台の時間的な構造がどのようにプロットできるのか興味深い.入れ子,繰り返し,交差ぐらいしか語彙が思い浮かばないけど,いったいどんな感じなんだろう.脚本は時間軸が多少狂いながらも,一つの抽象的な人生が確実に前進(すなわち結婚→別居)して終了する.全体として,一筋の人生しか持てないヒトの視点と,多数の人生をずらしながら眺めることができる神の視点の違いを類推することもできる.自分の人生がある視点から眺めれば一つの小宇宙の構成要素になりうるという事実は,我々を幸せにするのだろうか.それとも我々の人生一つ一つが,実はズレ幅を持った一つの小宇宙なのだろうか.これを見ること(あるいは演じること)ができたという事実を考えると,答えは明らかに後者だろう.

この舞台はつくづく幻想的だと僕は思う.イメージを仔細に形づくり,一つの小宇宙を構成する.ヒトとヒトの間に存在する超えがたい溝を描くとともに,それらと共存するかもしれない幸福を描く.両者の間の接着剤はずばり愛だったりする.超えがたい溝は,厳密に考えれば切羽詰った問題だけれど,思い切って考えれば遊びの対象であり,したがってそれは幻想的になる.思い切りも愛も度量の大きさだ.ほんとに面白かったよ.お薦めです.
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by patyakatya | 2005-02-05 14:51 | 万物流転