興味深いパラダイムに対する考えを積み重ねる場にしたいです.


by patyakatya
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カテゴリ:遠近法( 4 )

漂着する場所

海岸で拾った石や公園の木の幹の奥行き.精神的な奥行きと感覚的な奥行き.デンマークのある家族は,クリスマスの晩餐の席を一つ,突然の来客あるいは精神的なもののために開けて用意しておくらしい.漂流してとどまってまた離れていく,稀人というしきたりもまた奥行きを場に表現する方法の一つ.ヨリシロを用いて空間に穴をあけ客を招き,こちらから向こうにゆくのではなく,ただお待ちする,そんな穏やかで非行動的な日常.
そして稀人は天使のように突然現れ空気を入れ替えさっていく.稀人は非論理的で知覚できるモノゴト.つまり奥行きを感じさせるモノゴト.例えば竹生島の雷鳴.ある種の神秘.

ヨリシロという遊び方.
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by patyakatya | 2006-03-07 01:23 | 遠近法

一番遠い場所

創る・知る・感じるという行為群は,結局全てはおもちゃに過ぎない.他人におもちゃを提供したり他人がおもちゃを作る下準備をしたりしながらみんな生きていく.そして,そうやって創ったおもちゃで,一緒に遊びながら生きていく.遠い場所は世界中に転がっている.皆と一緒に遠い場所まで歩いていきたい.そのことこそが,一番遠くに向かう最良の道なんだと思っている.一番遠い場所は,他人の中にある.一人で歩きたくない僕はそう思うことにした.
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by patyakatya | 2005-02-26 06:23 | 遠近法

遠い日の歌

「違う」と感じる/思う能力の方が現実/クオリアに近く,「同じ」と思う/感じる能力の方が現実/クオリアから遠い感じがする.

今日もこのことについて考えていた.人間の知覚は時空間的分解能がそこそこ優れているので,一生の間に複数の(というか寧ろ無数の)クオリアを感じることができる.人間にはそういう複数のクオリアを「同じ」とみなす能力と「違う」とみなす能力の双方が存在する.つまり,異なる粒度(ギブソン用語)でクオリアを呪物(フェティッシュ)に変化させることができる.「同じ」も「違う」も,世界を探求する方法としては等しく重要なんだろう.ただ,僕には「同じ」の方が「違う」よりも「遠い」という感覚がする.

「近い・遠い」という感覚に対して,どうして僕はこだわるのだろう?以下でその説明を試みてみる.

「近い」あるいは「遠い」という言葉が生み出す感覚は,これまでのエントリーでも度々触れてきた「奥深さ」という言葉が生み出す感覚と,自分の中では全く一緒である.

どうして「近い」とか「遠い」とかいった感覚が僕にとって重要なのか.それは,人は「遠いもの」を知ること/感じることになんともいえない切実感を感じるように思えるからだ.そして僕自身もまた,「遠いもの」に対して常日頃から片思いを寄せている.

「死」は人にとって一番遠い存在かもしれない.だから「死」を切実に考える人間は,「遠いもの」を知ったり感じたりしたがるのかもしれないと僕は思う.あるいは「他人」こそが人にとって一番遠い存在なのかもしれない.だから人間は「遠いもの」を知ったり感じたりしたがるのかもしれない.
細かい違いを見出すことも,統一的な傾向を見出すことも,共に遠くへたどり着くために人類という種が手に入れた奇跡的な手段なのだと思う.でも,遠くって本当にどこなんだろう??

人は遠い場所にたどり着くために同じとみなす能力を持っている.また同時に,同じとみなす能力を利用しなければ遠い場所には到達しえない.
人は遠い場所にたどり着くために違うとみなす能力を持っている.また同時に,違うとみなす能力を利用しなければ遠い場所には到達しえない.
一人一人が「違う」「一人の」人間であるということが解らない人が,他人というものを理解できるはずがない.

遠い場所とは,遠い日とは,本当に何のことなんだろう.「死」「他人」「宇宙」「自分」全て同じものなんだろうか.多分そうなんだろうと僕はなんとなく思っている.

以上が僕が遠近感に拘る理由だ.そして,遠い場所を探すうえで,「同じ」の方が「違う」より遠い感じがするというのは,ひょっとしたら重大なヒントかもしれないと僕は思う.「同じ」の方が「違う」より遠い感じがするから,「死」「他人」「宇宙」「自分」といった「遠いもの」は全て「同じ」ものだと感じるのかもしれない.これは個人的な嗜好なのか,結構みんなそうなのか,僕にはよくわからない.よくわからないこの「遠いもの」に関して,僕はこれからも考えていきたいと思う.
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by patyakatya | 2005-02-26 05:44 | 遠近法

奥行きの単位

あらゆる呪物に対して予感される奥深さの,奥行きの単位とはどのようなものなんだろう?歴史的な奥深さ?地理的な奥深さ?費やされた時間の奥深さ?時間的,空間的な奥深さが確かに大切であるように思えるのは,例えば一つの小石に宇宙を喚起される人間の心的働きを思い起こすことができるからである.宇宙が永く広大でなければ,このような想像は生まれないだろう.

ところで澁澤龍彦の「胡桃の中の世界」によると,コクトーは「ある物体を大きいとか小さいとかいうのは間違いで,近いとか遠いとかいうべきだ」と考えていたらしい.奥行きという感覚は当然「近い・遠い」の感覚であり,「大きい・小さい」の感覚じゃあない.クサマトリックスにあったLEDと合わせ鏡に包まれた梯子の作品を思い起こすと,コクトーの言っていることは凄く良く解る.
今は生態心理学が動物に適切な単位系を再構築するべく頑張っているけど(といっても流石に呪物の奥行きの単位については研究していないと思うけど),ギブソンよりも随分前に生きたコクトーのこの言葉も,ギブソンの著作に似た「解りやすさ」を感じさせると僕は思う.この「解りやすい」ということは生態心理学にとって重要なポイントであるから,そういう意味でコクトーを同じ感じに捉えても良いんだろうなと思っています.
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by patyakatya | 2005-02-04 01:57 | 遠近法