興味深いパラダイムに対する考えを積み重ねる場にしたいです.


by patyakatya
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カテゴリ:同じという事,違うという事( 1 )

感覚器の嗜好,頭の嗜好

認知の仕組みを2種類に大別して考えてみると,僕の中で道理が通ります.一つは差異や個性への興味,もうひとつは同一化への興味です.前者を感覚器の嗜好,後者を頭の嗜好と呼ぶことができるでしょう.
感覚器が差異や個性を好む証拠として,僕はまず第一に,親しい人の顔を見続けると急にそれが見たことのない顔にみえてくるという現象(ゲシュタルト崩壊)を提出致します.また第二の証拠として,青山二郎さんの『眼の筍生活』の文章を抜粋する.

――それが美術品といわれるのは,独自な一つ一つの形態がそこに在って,それが他と違わなければならぬ大事な所で,他と違っていなければならないのです.全体としてはどの唐津でも,唐津は唐津らしいのですが,そこが他の如何なる唐津とも違っているという点が大事なのです.これを見落とすことは出来ません.

二郎さんのこの文章は,絵心のある骨董屋が長年の秘蔵品を描いたつもりの絵が,二郎さんからすれば似ても似つかぬものであったというエピソードの直後に位置している.二郎さんの筆は以下のように続く.

――知らず識らずにこうして頭の助けを借り過ぎている我々の眼が,物の「在り方」ともいうべきその形態を,先ず以って失念して異としない点を私は注意して見たいのです.
――物の「在り方」は美の鑑賞なぞといううっとりした眼に,最初の印象を許すものではありません.一眼見て惚れたといいますが,文字通りそれは好き好きというもので,それとこれとは別の問題であります.――

これらの文章は,同時に,「頭」が同一化の嗜好を持つということも明らかにしています.「唐津は唐津」であるとして同じであると「考え」てしまうとすれば,それは頭の働きの所為であり,「うっとりした眼」ということは,頭の働きが感覚器を左右しているということです.これは呪物の話と全く同じ話です.

ところで,「感覚器」と「頭」という用語の使用はあまり適切ではないかもしれません.学問的には「知覚の低次機能」と「知覚の高次機能」とでも呼ぶべきなのかもしれません.しかしここでは,解りやすさを考慮して,それぞれをやはり「感覚器」と「頭」と呼ぶことに致します.

青山学院の校長先生は,やはり頭よりも眼の方に信頼を寄せていたんだと思います.「眼利き」というのは,当然ながらそういうものなんだろうと思います.でも一方で,頭による同一化への嗜好も,僕にはそんなに悪いことには思えません.例えばある一つの単語に対して(「図書館」でも「美しさ」でもなんでもよいです)我々が持つイメージは,同一化の最たる結果だと思いますが,我々はそのような同一化の結果として存在する「イメージ」に対して,そこはかとない豊穣さを感じることができるのです.それは世の中を把握する大切な方法であると同時に,単純な「おもちゃ」としても利用できます.「矛盾」という概念を基にして絵を描いたエッシャー,「濁音時代」というルールに沿って創られたCM,「プリニウス」に関する澁澤さんのエッセイ,,,同時に,ただ見えた景色を描いたために名作と呼ばれるようになった絵というのも,確かにこの世の中には存在するらしい.

細部に神が宿る.神が宿った細部は呪物となり,頭の領域へと繋がっていく.それならば一つのポイントは,感覚器の領域と頭の領域の境目を何処にするのか,ということになるだろう.そもそも眼の領域の向こう側に頭の領域がある,と考えてもよいのだろうか.人は見えなくなったときに初めて,頭を利用するのだろうか.脳は近いと思っていたけれど,本当はずっと意識にとってさえ脳は遠い場所なのだろうか.


こういう人間の在り方に関して,どう考えていけばよいのかはまだまだ結論がでそうにもありません.とりあえず,二つの嗜好が人間には備わっているということ,そして折角そういう複雑な性質を備えているのだから,そういう不思議な嗜好を楽しむことが重要なんだということ,を肝に命じて行こうと思っております.蛇足ですが,「部分と全体の関係性」というコンピュータサイエンスの一つのトピックの考え方も,なんとなくこの方向性が正しいんじゃないかなと思います.
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by patyakatya | 2005-02-24 19:08 | 同じという事,違うという事