興味深いパラダイムに対する考えを積み重ねる場にしたいです.


by patyakatya
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知覚及び思考で自然を把握するということについて

住んでいるマンションの前には林があって,そこには沢山の蝉がいて,昼間は勿論のこと,夜中にもときどき彼らは一斉に鳴きだし始める.夜中に蝉が鳴くのは,弟の意見によるとこのマンションの家々の窓の明かりに反応してしまうためらしい.というわけで蝉に徹夜させるのも悪いので部屋の障子を閉めたんですが,すごい蒸し暑いです.

今日はホワイトヘッドの「自然という概念」を少しだけ読んだ.そこには.思考も知覚も自然を把握する道具としては等価である,というようなことが記してあった.

どういうことかというと,ここからは思いっきり僕の意見だけど,つまりクオリアを感じるための知覚能力と,推論やら計算やらを実行するための思考能力は,ともに自然現象を一定の制約条件(具体的には脳神経系のハードウェア的制約)の下で把握するという点で等しいのである.知覚も思考も供に自然現象を理解するための重要な要素であり,例えば知覚の結果(赤の赤さ)の方が推論の結果(一つのりんごを半分に割ると二つになるという普遍的な事実)よりも「自然に近い」ってことはないのである.「一つのりんごを半分に割ると二つになるという普遍的な事実」は「赤の赤さ」と同様に,この世界に存在している.

ホワイトヘッドの意見と見方を変えて,逆にこの二つに違いがあると考えてみる.そうすると,その違いは,知覚プロセスと思考プロセスそれぞれに関わる脳神経系の違いに起因するものしかないんじゃないかと僕は思う.例えば色を知覚するプロセスは光の波長を分別する能力に長けており,推論を行うプロセスは因果関係を把握する能力に長けている.だからこれらには違いが生じる.こういう違いを「重要な違い」とみなすかどうかは,当然その場合場合の問題意識によるだろう.僕は,人間の知覚プロセスや思考プロセスに見られる上述したような特徴はいわば偶然の産物であり,たいした意味はないであろうから従って重要な違いではないであろうと,とりあえず考えています.


思考と知覚がともに自然に近いということは,つまり「1+1=2」といったような数式が「赤の赤さ」と全く同レベルで自然界に存在しているということでもあり,だから茂木先生が取り組むクオリア問題と全く同じレベルで,「何故数式はなりたつのか」という問題もすごく面白い脳科学のトピックになっているんじゃないかと思うがどうなんだろう.
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by patyakatya | 2005-08-19 01:51 | 数学・アルゴリズム